ライク・サムワン・イン・ラブ


アッバス・キアロスタミが何が気に入ったのか(苦笑)オール日本ロケで撮影した「ライク・サムワン・イン・ラブ

タイトルはジャズのスタンダードナンバーから。
劇中にも主人公とヒロインが初めて会うシーンで流される。
参考までに歌詞の和訳を。

Like Someone In Love
 
最近ね
私ったら
気づくと星をじっと見つめてる
ギターの音色に聴きいったりして
まるで恋してる人みたいよ
ときどき自分でもびっくりしちゃうの
あなたがいるといつもそうよ
 
 
最近ね
私ったら
羽根が生えてるみたいに歩いてるらしいの
物にぶつかったりして
まるで恋してる人みたいよ
あなたを見るたび
はずした手袋みたいにくたっとなっちゃう
その感覚ったら
まるで恋してる人みたい


(引用元 http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/8426/

すべて演出による意図だと思うのですが、序盤から登場人物たちの芝居の異様さが見る者の感覚を少しずつ、狂わせていきます。
何とも言えない違和感。
悪い磁場のようなものが序盤からスクリーンに横溢しています。
噛みあわない会話や、まだるっこしく明かされていく登場人物たちの関係。
演者たちには撮影当日分の台本しか渡されていなかったとのことなので、演出やディレクションによって得られた効果なのでしょう。

異様にドライブシーンの多い構成もここに一役買っています。
ひたすら運転者を正面に据えて、頻繁にカーブを曲がらせたり、きょろきょろと動く目線をとらえて、観る者の三半規管を確実に狂わせます。

物語の中盤に入って加瀬亮演じるヒロインの「恋人」が登場すると、この違和感は頂点を迎え、いよいよ観客たちは違和感の果てにある、独善と暴力が支配する狂った世界に巻き込まれていくのです。

誠実さに似た狂気に蝕まれた恋人を演じた加瀬亮の不気味さは際立っていました。
この「恋人」によって物語の中である引き金が引かれることにより、異様だった演者たちの芝居はいよいよ混迷に向かいます。
行動が目立たないながらも支離滅裂となり、台詞にも無意味な繰り返しがはさまれるようになります。

束の間、心の交流に「似た」ものが生まれかけたかに見えたヒロインと主人公の関係も恐怖と暴力によって完全に遮断され、それは二度と通じ合うことはありません。

長年にわたって老人を窃視する隣家の女、その女の障害を持った弟、頻繁に鳴る電話、数十年来の旧知で近所に住んでいながら、主人公に声をかけることがなかった男、それらの違和感に満ちた一見平穏な主人公の老人の生活が、映画史上に残る(大袈裟かw)唐突なラストシーンに向かって、雪崩を打つように崩壊していきます。

加瀬亮の怪演と、この唐突なラストの2点のほか、特にお勧めするべき理由が見つからない作品ではありますが、決して悪い映画ではなかった…はず(苦笑)。

とにかく幕切れが唐突過ぎて、何かの機会にもう一度見てみたい。



>加筆

それにしてもこの文の冒頭に引用した歌詞は凄くしっくりくる。
この映画に出てくる人たちは、本当に外したままの手袋みたいにクタッとしていて恋しているみたいなんだけど、でもそれとは違う何かに囚われて、そこから出てこれない人たちのようだった。

鑑賞から二日たって、実は自分がこの映画を気に入ってるんじゃないか、という気がしてきたのが不思議。