ばしょのもんだい

江東区の北部に位置する森下という地名は、江戸初期に深い森だったことに由来するのだそうだ。
現在では名前の元となった森は姿を消し、隣接する菊川、猿江、白河といった町と同様、商業地として発展した。
もともとはドヤ街として多数の日雇い労働者たちが暮らした町でもあり、現在の居酒屋が割拠する礎となったという。

淡路町を出て、森下に到着したのは16時半ごろだった。
春先の薄い夕空が、くすんだ色の町並みに影を落し始めていた。

思えば、生まれてこの方川崎の在である。
橋一本渡れば東京、という町に生まれたが、いわゆる東東京には殆ど縁のない人生を送ってきた。
僕にとっての東京の北限は新宿区あたりで、そこを超えるとまったくなじみのない異界となる。
日常、ふらふらと飲み歩くのも、港区の職場から、品川、大井町を経由して、大田区、目黒区、世田谷区がテリトリーとなる。
その境界を越え、電車で小一時間も費やしてまで、遠くの飲み屋にわざわざ詣でるほど勤勉な人間でもない。

「森下にね、いいお店があるの」

神田「まつや」を出て、靖国通りを歩いている時、ふいに耳元によみがえった声が、その日の僕に滅多にない気まぐれを起こさせた。

「煮込みがおいしいの」

赤ワインで煮込んでいるので、どこか洋風な味わいで、常連は皆、ガーリックトーストをあわせて頼み、それを浸して食べるという。
彼女の口にした「Y」という店の名前は何度か目にしたことがあった。
煮込みが名物だという話も、平日の開店前から常連が列を作るといった話も、すでに活字で目にして知っていたが、森下、という場所で、ハナから縁がない店だと決め付けていた。

「今度一緒に行こうよ。今は本館が改装中だから、来年本館の改装が終わったら。本館と新館があって、新館はイマイチなの」

その女性は無邪気に言った。
去年の秋口の頃、戯れに連れて行った、Kという行きつけの居酒屋のカウンターだった。

「ああ、いいね、ぜひ」

僕は調子よく言った。
その実、なんとなく、Yという店とも、その女性とも、あまり縁がないだろうと感じていた。
実際、それから何度か待ち合わせて飲みに行ったりもしたが、今年のはじめ、つまらないことでちょっとした口論になり、疎遠になった。

地下鉄の車中、携帯電話用のwebサイトで調べた場所に行くと、ちょうど開店したところだった。
どうやら僕がその日のくちあけの客となったようだ。
改装中の本館の仮店舗的な位置づけらしく、狭い厨房にまだ若い料理人が二人、黙々と仕込みをしている。
接客は、30前後の、ラフな服装の男が一人。服装はラフだが、言葉遣いははきはきとしており、口調も丁寧だ。

グラスの生ビールと煮込みを貰うことにした。
メニューを見るとガーリックトーストと既にセットになっている。
煮込みは厨房の中の出窓に面したガス台に掛けられた大なべでぐつぐつと煮込まれているのを、小鉢によそってくれる。ガーリックトーストは、注文ごとに、バゲットの斜め切りに緑色がかったブルゴーニュバターを塗って、トースターで暖めてくれる。

目の前に出された煮込みとガーリックトーストは、香りは食欲をそそるが、いまひとつ、琴線に触れない感じだった。

前夜の酔いと、まつやで既に腹がくちてしまったせいか、あまり美味とは感じられない。
むしろ、すこし胃に重たい感じだった。
こちらの体調の所為だろうが、なんとなく、終始、微妙にちぐはぐだった女性との関係を暗示しているようだった。

カウンターの隣の席では、僕の直後に店に入ってきたタオルを鉢巻のように額の上で巻いた如何にも一人親方然とした親父が、仕事先からかかってきた電話に大声で応対している。

煮込みはあまり進まず、先にビールが空になった。
お酒を燗で頼む。鶴の友。
親父の携帯はなかなか終わらない。
到着しているはずの資材が現場に到着していないことでトラブルになっているようだ。地声が太いので通話の内容までこちらに丸聞こえだが、悪びれたところもない。
周囲の客は、ビールのあと、基本的に焼酎に流れていくようだ。
まれに日本酒を頼む客もいるが、燗をつけてもらう客は殆どいない。
4名ぐらいのグループ客もいるので、なんとなくざわついていて、落ち着かない感じだったが、気がつけば店内は平日の17時前だというのにほぼ満席となっている。

急速に、気分が色を失い、萎えていくのが分かった。
あのまま「まつや」で気分よく切り上げて、古本屋でも覗いて、なじみの居酒屋でもひやかして帰ればよかったのだ。

鶴の友が出される。
品のよい、薄いつくりの銚子に、放射状に広がった口当たりのよい猪口。太田和彦好みというヤツだ。僕はあまりすその広がった酒器は好まない。口当たりも薄すぎず、どちらかといえばすこし鈍臭いぐらいの厚みのあるほうが好ましく思える。

猪口の底には桜の塩漬けが仕込まれていた。
季節感を演出しているのだろうが、酒の味は失われる。
付き合いで一口飲んで、桜の花は空いている皿の端によけた。すべての歯車が狂いだし、キシキシといやな音を立て始めているようだった。

やりつけないことをすると、こうなる。

この店を薦めてくれた女性と口論になったときも、そう思ったものだ。
なぜ男は、無益と知りつつも、それをやめることができないのか。
いや、男ではない。他ならない僕自身のことなのだ。

気分を変えたくて、残った煮込みを無理やり食べ、目に付いた鯖の”へしこ”を注文する。
”へしこ”とは鯖などの青魚を糠漬けにした北陸の名産だ。軽くあぶって食べる。塩辛いので、一片で酒や飯がよくすすむ。

親父の携帯はようやく終わった。スポーツ新聞の競艇欄を開き、熱心に読み込んでいる。

交わらない2本の線。

出されたへしこは値段の割りに気前よく盛られていて、銚子の酒はすぐに空になった。
日本酒は切り上げて、チューハイを頼む。
キンミヤのグラス。

炭酸がつよく、いかにも下町のチューハイという感じに少し救われた気持ちになった。

会計を済ませ、外に出るとあたりは薄い暗闇が降りている。
見慣れない町の見慣れない闇。
まっすぐ地下鉄の駅に向かう。
人気のない地下駐輪場、人気のない改札、人気のないプラットホーム。
無性に飲みなれた店のカウンターが恋しかったが、こういうときはまっすぐ帰るほうがいいのだ。
ホームに滑り込んできた地下鉄の座席に深く身を沈め目を閉じた。
乗換駅までは30分ほどある。
少し眠っておくことにした。