カツ煮

中途半端な時間に帰宅しようとしたところ、家人から酒のアテになるようなものの用意がないので、なにか買ってきてほしいと頼まれた。

帰り道の通りがかりに思いつくところを数軒覗いてみたがめぼしいモノがない。

やっと家から一番最寄のスーパーの総菜売り場で、2割引きになったヒレカツのパックが売られているのを見つけてピンときた。

レジにて会計を済ませていそいそ帰宅して、早速支度にかかる。

卵をボールに割り入れ、白身を切るように菜箸で大きくグルグルと粗く混ぜる。白身と黄身が大きなまだらになるぐらいで良い。

程よい大きさのフライパンに「カマダのだし醤油」を少し濃いめに割った汁を張って火にかけ、ザクザクと櫛切りにした玉ねぎを煮立てる。

玉ねぎが柔らかくなったら、食べやすい大きさに切ったカツを均等に配置する。

そこに「エイ!」と裂帛の気合もろとも溶き卵をかけ廻し、すかさずフライパンに蓋をする。

1分ほど強火にかけたら火を止め、蓋をしたまま3分ほど放置したのち、するりと皿の上に滑らせたら完成である。

 

f:id:mon_uncle:20141009092015j:plain

カツ煮。所謂「カツ丼のアタマだけ」というヤツだ。

カツ丼の起源には1921年に早稲田大学の学生・中西敬二郎が考案したという説と新宿区馬場下町蕎麦屋三朝庵の店主が考案した説という説があるが、いずれにせよ、江戸から続く東京の男たちの甘辛好みが、明治になって花開いた洋食文化と出会って生まれた、まぎれもない東京の味である。

カツ丼を外で食べたりすることは滅多にないが、こういうとき、たまに思い出して作る。

 

江戸時代、料理は男性の仕事だったそうだ。

もちろん日常の煮炊きは女性がしていたが、屋台や料理屋など料理を生業とするのは男性だった。

今の時代に馴染まないし、その考えを支持するわけではもちろんないが、古来、料理を作り食べるという行為は神との饗宴と考えられており、女性が神様の食べ物に触れることはタブーとされていたのだという。

江戸は何もない関東平野に急ごしらえで作られた新興都市で、江戸初期には商人や職人、武士、あわせて80万人ほどの人口の内、およそ8割が男性だったという説もある。ましてや建築土木に携わる肉体労働者や、つい先日まで職業軍人として山野を駆け回り、殺し合いをしていた血の気の多い武士たちが寄り集まっているのだから、必然的に塩辛い味を好む上に、人口の急増により野菜や魚などが慢性的に不足がちだった為、少ないオカズで大量の飯を食う必要があったことも、江戸の人々の濃い味好みに拍車をかけたのだとか。

そういった経緯などもあってすでに江戸時代から、関西の人々は関東風の食べ物や味付けを下に見る傾向があったのだそうで、関東人の多くが、東京に来た関西の人からうどんの汁が黒いだの、おでんがしょっぱいだの言われて、かえす言葉のないような気分を味わったことがあるだろう。*1

このカツ煮のようにたっぷりの醤油、砂糖にみりんで作った割り下に、鰹出汁を効かせた甘辛い味は、関西の人の毒舌の格好の餌食になりがちだが、やはり関東に生まれ育った僕のような男には、郷愁を誘う味である。

そういえば昔、父親も母親が作ったカツの残りなどでカツ煮を作って食べていた。

滅多に料理を作らない人だったが、こういうアテやインスタントラーメンだとかをたまに作っては、母親からイヤな顔をされていた(過去形で書いていますがまだ存命ですw)。

僕の作ったつまみでほぼ毎晩、酒を飲んでいる家人ののほほんとした横顔を眺めながら、人の世の移り変わりなどにちょっと思いを馳せる夜であった。

*1:個人的にはもう一切の反論を放棄することにしている。平和が一番である。