京成立石「宇ち多゛」

平日の14時少し過ぎ。
降り立った京成立石駅のプラットホームには、なんともいえない醤油の香りが漂っていた。

初めて訪ねる”その店”はホームから橋状駅舎の階段を登り2階の改札口を背に右手の階段を折りてすぐ、古いアーケード式の商店街の一角にある。

力強い書体の白文字で「煮込み もつやき」と染め抜かれた臙脂色の暖簾の前まで来ると、すでに4人ほどの男性が列を作っていた。



開店は14時と聞いていたが、さすがの人気店。開店と同時に満席になって、20分も経たない内に列ができたと言うことか...。

と、僕の背後から先ほど一緒の電車を降りた男性が、足早に僕を追い越して、するするっと、その列の最後尾に並んでしまった。

なるほど、競争は厳しいらしい、と苦笑しつつ僕も列につく。
開店直後だし、これは少し長い間待たされるだろう、と覚悟を決めた。
おりしも東京はその日、この冬で一番の冷え込みの日だった。

肩をすくめて体を小刻みに揺らしながら、ただひたすら待つ。

いや、揺らすつもりはなくても、勝手に揺れてしまうと言うのが正確か。
幸いなことに回転は良い様で、10分弱ごとぐらいに、一人、また一人、と先客が席を立っていく。

「何人?」
お店の人にぶっきらぼうに聞かれるまではおそらく30分ほどだったろうか。
「一人」
僕は極力気圧されない様に、なるべく大きな声で返し、念のため顔の前で人さし指を立てて見せた。

通された席は、暖簾を潜ってすぐ、大きな煮込みの鍋がグツグツいっている目の前の席だった。
僕のすぐ後ろで待っていた常連と思しき男性が「おっ、ラッキーだな」と小声でボソッと言った。

その席は常連諸氏の間では「鍋前」と呼ばれていて、上席に属する、ということは何かの本で読んで聞いたことがあったが、そのときの僕にはその僥倖を喜ぶ精神的な余裕はない。

何しろこれから最大の通過儀礼が待ち構えているのだ。

「飲み物どうしよう?」

席につくなり抑揚なく尋ねられた。
一瞬たじろぎつつビールの小瓶を、と応える。

「おかずはどうしよう?」

(ああ、おかずね。おかず。そう、ここの店ではもつ焼きのことをおかずと呼ぶって言うのは、何かで読んだことがあるぞ。)

「煮込みください。あとレバタレ若焼きで」

若焼き、という呼び方はこの店以外でも使う「レア目に焼いてほしい」という意の符牒の一つなので、違和感なく使えた。
部位名+タレor塩、というのも割とポピュラーな注文の通し方だ。

(違和感ない、違和感ないぞ)

と自分で自分を鼓舞しながら、注文した品物を待つ。

だが問題は、意地になって予習というものをまったくしてこなかったので、レバ以外の注文できる部位が分からない。
店内には、品書きらしきものは見当たらないので、次に何を頼めばいいのか、まったくアテがないのだ。
初めての店で、これほど頼りない気持ちはないが、カシラ、タン、アブラ、あたりは他のお客の注文から辛うじて聞き取れた。
寒さで震える手でビールを小瓶に注ぎながら、鍋から自分の分の煮込みが取り分けられるのを眺めながら思案をめぐらす。

「タン生、お酢かけてー」
「こっちもタン生」
「大根、生姜乗っけてお酢でー」
「こっちアブラ素焼き、お酢」

考えるそばから、あちらのお客、お次はこちらのお客、という具合に矢継ぎ早に新しいパターンの注文が入る。
早口な上に、呪文というか暗号のような符牒は一度耳を通り過ぎたぐらいでは意味として、まったく頭に入ってこない。

聞き取ろうとすればするほど、心は千々に乱れた。

目の前に煮込みの皿がすっと差し出された。
気持ちの落ち着かないままに、割り箸を割った。

煮込みは濃厚な味噌仕立てで、脾臓や肺、腸なんかと思しき部位が気前よく盛られていた。
色は濃いが、味はそれほど濃くない。
こっくりした味噌の風味と、緊張で渇いた喉を通り過ぎるビールの味が心地よい。

「レバタレ若焼きはー(どなた)?」

お店の人の声にハッとなり「こっち」とあわてて手を上げて、串焼きの盛られた皿を受け取る。

レバタレ若焼き。串焼きは二本から、がデフォルトのようだ。
とりあえず串を一本手にとってまずはがぶり。
うん、旨い。
大振りに切り分けられたレバは、新鮮な血液の味。

(うんうん、なかなかいいぞ。)

と再び自分を鼓舞する。何故か気分は井之頭五郎である(苦笑)
と、調子の出掛かったところで、隣席から声がかかった。

「シンキ、頼まないの?」

年のころ50台の後半から60台。白髪にあごひげ、スポーツメーカーのロゴが背中に大きくプリントされたナイロンのベンチコート姿のその先客は、いかにも立石の住人、といった風情を醸し出している。

「シンキ?」

とぼけて見せたが、実は、有名な居酒屋ブログか何かでちょっとだけ耳にしたことがある単語だった。何かと何かが一皿にのっかっていると言うアレだ。

「いいから頼んでみなよ。シンキありますか?ってさ」

こちらの質問には答える気がないのか、よほど自信を持っているのか。
とりあえずここは言うことを聞いておいたほうがよさそうだ、と店内を見回して注文のタイミングを計っていると

「いいから、パッと頼んじゃいなよ。聞いてないようで、誰か聞いてるんだから」

ええい、ままよ、と言われたとおりに意を決して

「シンキありますか?」

と声を張ると

「はいシンキー」

と店の奥の方から返答があった。

「ほらな。いいかい、あんたもあちこち行ってるかもしれないけど、そこにはそこなりの流儀があるんだよ」

先客はそういうと、グラスの梅割り焼酎にちびり、と口をつけた。
なんだかこちらの心根を見透かされているようで、ギョッとした。

「シンキはー?」

と呼ぶ声に、すかさず手を上げる。

皿を受け取って目の前に奥や否や

「皿は終わったやつから重ねてくんだよ。串はこうやってカウンターの上に並べてさ、残ったタレは呑んじまえ」

もう面倒くさいからとにかくこの先輩の言うことを全部聞いてしまおう、という気になっていた。
見渡した限り、皿に残ったタレをすすっているお客はいないのだが、もうこの際抵抗するのもばかばかしいので、レバタレ若焼きの皿に残っていたタレをすすって、その上にシンキの皿を重ねる。

(ほほう、これがシンキか)

ボイルしただけのシロと子袋が一本ずつ、串に刺さった状態で並んでいる。
どうしてシンキというのかはなぞだが、なかなか旨そうだ。

(お酢、かけてもらえば良かったかな)

と思うが後の祭りと諦めて、手を伸ばそうとしたところに再び隣席から指導が。

「はじめに串全部はずしちゃいなよ」

(はいはい仰せのままにいたします)

言われるがままにそれぞれ串をはずし、まずは子袋に箸をつけた。

(うん、旨い)

噛み締めつつ、僕も焼酎の梅割りを貰った。

だが、やはり、お酢をかけてもらいたい味ではある。次回は絶対にお酢をかけてもらおうと心に決めた。

「いや、ホントに旨いです。初めてなのでいろいろ教えてくださって助かりました」

心から礼を言うと

「な、旨いだろ。この店のモツはどれも新鮮だからな」

と自分の手柄みたいに言うと、先輩はさっさと勘定を済ませて席を立った。

これだから酒場巡りは楽しい。

ずいぶん気持ちがやわらかくなるのを実感しながら、幾分余裕を持って、梅割のお代わりを頼んだ。

まだ勘定も済ませてない内から、次はいつごろ来ようか、と算段を始めている自分が可笑しかった。

「こっちアブラタレお願いします」

なんとなく勢いに釣られて注文してから、しまったと思う。

本当は何かさっぱりめのおかずを素焼きでお酢かけて、っていうのを頼みたかったのだ。

これは本当に早い内に来ないといけないな、と梅割のお代わりをグラスに注いでもらいながら、心に誓う午後だった。