酒場のマジックアワー

仕事を無理やり片付けて、半年振りぐらいに訪なう雑色の酒場。
品川を出る頃にはまだ降っていた雨が、最初のビールを飲み干す頃にはキレイに晴れていた。

すると、迷い犬が一匹、大きく開け放ったままのドアからご来店。
モサモサした毛並みの黒い小型犬。
店の人も、常連さんも驚くわけでもなく、「ああ、どこかから逃げてきたんだな」と、特に相手もしない。
厨房の中の人が「こんにゃろ、串に刺して焼いちまうぞ」と言って、一同どっとわらい。

なんとなくカメラを向けるのも無粋な気がして、絶品のハツ生で、冷たい剣菱をグビり。

「すみませーん」背後で声がして振り向くと、自転車に乗った70過ぎぐらいのおじいさん。
「おしっこに出してあげたら、そのまま逃げちゃったよ、こいつめ」
そう言って犬の方をキッとにらみつけるけど、そんなこと犬に言っても分かるわけはない。平気な顔でパタパタ尻尾を振りながら店内を歩き回る。

「○○さんちから、そのまま歩いてきたの?あんなところから?」
焼き台のマスターがむくつけきお顔からは想像できない素っ頓狂な声で尋ねる。
「そうなんだよ、おしっこにだしたら、そのままトトトってさ、コンニャロ」
「良かったね、車にはねられないで」
ホール係のおじさんが後に続くようにいい、犬を抱き上げておじいさんの自転車の前かごに載せてやる。
「おさわがせしましたね」
おじいさんは安心したように言うと、ペコっと頭を下げて元来た方に自転車をこぎ始めた。

「あの人、久しぶりに見たね」
マスターが言った。
「ずいぶん老けたよ。わたしより確か3つは上だと思うけどね」
そういうマスターも、半年振りに見ると、すこし疲れているように見える。時折、物が見えずらそうにするしぐさをしたりする。両目とも少し白濁しているようだ。白内障だろうか。
「本当に久しぶりに見ましたね」
相槌を打つホール係のおじさんに、ガツ生をお願いして剣菱をグビり。

「いよっ」
陽気な声がして、Tシャツ短パン姿の常連さんが一人来店。
「なんだよ、雨かと思って濡れてもいいカッコできたのにさ、晴れちまいやがった」
うれしそうに悪態をつきながら、コの字型のカウンターの僕の向かい側、焼き台を挟んだ反対側の席に腰を落ち着け、あれこれてきぱき注文。

「あんたさ、あのちょうちん、知ってる?」
常連氏が店の入り口にかかった、大きなちょうちんを指差して、初対面の僕に言ったのは、ビールを飲み終えて、その店の名物「レガッタ」が運ばれてきたときだった。
「マスターのさ、お孫さんがね、孫がおじいさん孝行するっていう趣向のテレビ番組で作ってきたやつなんだよ。ほら、なんとかっていうおかっぱ頭の芸人が、ここにきて撮影してったんだ」
バナナマンね」
すかさずマスターが言い添える。
「ああ、それ、それだよ」
「もう2年か、3年も前になるかね。日曜の夜中にわたしこの格好させられて撮影したんだよ。あの頃は孫も小学生だったけど、もう上の孫は中学生になっちゃった。ここの3階で住んでるんだけどね。もうすぐ部活終わって帰ってくるころか」

それから常連氏、僕、それぞれの子供の話をひとしきりしたあと、気になっていることを質問した。

「同居されてる息子さんも、お店を手伝ったりされるんですか?」
「いいや、させないよ。もうこの商売はわたし限りって、決めてんです」
マスターがきっぱりといった。
「そうか、じゃあ今のうちにたくさん来とかないと」
それを聞いていた常連氏が、間髪いれず
「そうよ、あんた、わたしなんて、ここに通うために、まじめに病院行って血圧の薬貰ってんだから」
「○○さん、それじゃあべこべだよ」
再び、一同、どっとわらい。
どことなく、皆寂しそうに笑っていた。