清潔でとても明るい場所
その男は、あまり楽しくない酒を飲んできたようだ。
日に焼けた浅黒い顔を高潮させ、時折聞き取れないほどの小さな声で何事か呟いては、頷いたり、首を振ったりする。
その合間にグラスに残ったぬるそうなビールを口に運ぶのだが、グラスの中身は一向に減ろうとしない。まるで、水飲み鳥のようだ。
僕はそれを横目に、冷奴の小鉢をつつきながら、レモンサワーを飲んでいる。
カウンターだけの小さな居酒屋で、僕たちは最後の客だった。
L字型をした白木のカウンターの中では、短髪の男が二人、もくもくと閉店のための片づけをしている。
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その夜は、仕事が珍しく長引いてしまい、腹も減っていたし、一杯やって気持ちをほぐしてから帰宅したかった。
改札を出たところで時計を見て、まだ十分やっている時間だと確認してその店に足を向けたのだが、暖簾をくぐった先には、"水飲み鳥"氏と、やけに無口な店員が二人だけ、という光景が広がっていた。
「もうラストオーダーだけどいい?」
僕が何か言う前から、年嵩の方の店員が気安い口調で声をかけてくる。
「閉めるにはずいぶん早いね」
僕が言うと
「今日はひどいもんだよ。もう1時間も前からこんな有様でさ、今日は締めて俺らも飲みに行こうかと思って」
年嵩の店員はそう言うと、なあ?というようにもう一人の若い方の店員に目線を送った。
送られた方の店員も「その通り」というように肩をすくめて見せた。
あまりに悪びれずに言われると、こちらも返す言葉がない。
後日出直すことにしようかとも思ったが、さすがに相手も悪いと思ったのか
「まあ、とにかく一杯飲んでいきなよ。つまみも出せるものなら出すよ」
というので、"水飲み鳥"氏から、席を2つほど挟んだ場所に腰掛けて、冷奴と、レモンサワーを注文した。
若い方の店員が低い声で返事をして、手際よく飲み物を作り始めるのを眺めながら、僕はあるヘミングウェイの短編を思い出していた。
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耳の聞こえない老人が一人、深夜のカフェテラスでウェイターにウィスキーのお代わりをせびっている。
老人は酷く酔っていて、ウェイターは最後の客である老人を早いところ追い返して恋人の待つアパルトマンのベッドに早いところ潜り込んでしまいたい。
彼は老人のお代わりの注文をにべもなく断って追い出しにかかるが、年嵩のウェイターからそれを窘められる。
「おれが毎晩店を閉めるのをためらうのは、だれか、このカフェを必要とする人間がいるかもしれない、って気がするからなのさ」
「だって、一晩中やってる酒場がいくらでもあるんだぜ」
「わかってないな。ここは清潔で、気持ちのいいカフェだ。照明もゆきとどいている。とても明るい上に、いまじゃ木の葉の投げる影もある」
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相変わらず"水飲み鳥"氏は、ぬるそうなビールのグラスを口に運んでいる。
そして中身は一向に減る気配を見せない。
僕の手元のレモンサワーのグラスは、空になりかけていた。
どうしようか、一瞬考えたところで、気を利かせた若い方の店員が、"水飲み鳥"氏に気づかれないように、僕に向かって無言で指を1本、立ててみせる。
"もう一杯、いいよ"という意味なのだろう。
僕がうなずくと、店員は黙って僕のグラスを取り上げ、お代わりを作り始める。
それと同時に、年嵩の方の店員が、精算をしても良いか"水飲み鳥"氏に声をかけた。
"水飲み鳥"氏は、どろん、とした目つきで、自分の手元のグラスと、年嵩の店員の顔とを緩慢な動作で数回見比べてから頷いて見せた。
それから、遮断されていた何かの回路が急に通電したかのような性急さで、グラスに残ったビールを一息に飲み干した。
伝票の計算を終えた年嵩の店員が、合計額を告げると、くたびれたスーツの内ポケットから財布を取り出して、苦労しながら言われた額ちょうどの金をそろえて店員に渡すと、"水飲み鳥"氏はそそくさと店を出て行った。
その後姿は、なんとなく、"水飲み鳥"氏は普段、こんな店で一人で酒を飲んだりはしない人物なのだろうな、と僕に思わせた。
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ヘミングウェイの短編といつも対になって思い出すのは、ゴッホの「夜のカフェテラス」という題の絵だ。
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若い方の店員がお代わりのグラスを目の前に置いた。
年嵩の店員が、レジ替りに使っている引き出しに"水飲み鳥"氏の置いていった代金をしまい、グラスとビール瓶を片付けた。
そして二人の短髪の店員たちは、黙々と閉店後の片づけを再開する。
箸たてに、割り箸を補充したり、醤油さしに醤油を継ぎ足したり。
ちょっと落ち着かないが、別に急かされているわけでもない。
僕は、グラスに手を伸ばし、少しだけ濃いそのレモンサワーを一口、口に運ぶ。
"水飲み鳥"氏が出て行って開け放たれたままの引き戸から、6月の夜のすこし湿気を含んだ夜気が漂ってくる。
いま、店には客は僕一人で、照明は行き届いて、とても明るかった。
木の葉の投げる影はないけれども。