Where The WildThings Are

ずっと楽しみにしていた「かいじゅうたちのいるところ」を子供達を連れて見てきた。

概ね、期待(予想)通りの出来。
絵本を良く膨らませて、ファンタジックな寓話をヒューマンドラマに換骨奪胎した感。

映像的には、昔のNikeのCMフィルムをずっと見ているようなドライブ感が、ちょっと軽いというか、もう少し、ビジュアルとして絵本的な薄気味悪さを残して欲しかった気もしなくもない。

まあ、良くも悪くもという部分もあり。

以下ネタバレ注意。

別の方も書かれていたが、原作では主人公のマックスが「おおかみのぬいぐるみ」を着ていたずらをし、怒った母親に自室に閉じ込められたところ、部屋から突然木が生えて、それがやがて、密林になり、河畔が現れ、そこにつながれたボートに乗って1年と一日をかけて「しま」に着く。

この辺の表現をセンダックの原作では、3ページほどを使って描いているので、絵本としての読ませ処ともいえる(実際、子どもはこういった典型的なエスカレーションを好む。)のだが、この部分に本作は改変を加えている。

「おおかみのぬいぐるみ」を着るところまでは同じ(もちろんそこまでの導入は異なるが)で、遊びに来た恋人にかまけて自分を省みない母親に腹を立てたマックスは食事に文句をつけ、テーブルの上に立ち上がり、母親の二の腕に噛み付き、「例の」捨て台詞を残して家を飛び出す。
そして後を追ってくる母親を振り切って、自宅近くの深い林に分け入り、その河畔からボートに乗って「しま」へと向かう。

これはまあ、本作で描きたかったのが、子ども部屋が突然ジャングルになり、そこから1年かけてはるばる航海をする不条理性を描くファンタジーではなく、あくまで、異形のかいじゅうたちを通して、一人の少年が幼年期から少年期へと移行していく様を描くヒューマンドラマなのだから仕方ない。

原作は、里心のついたマックスが、かいじゅうたちを振り切って再び1年と1日をかけて「しま」から部屋に戻ると、自室のテーブルには、まだ温かい夕食が用意されていた、というところで終わる。

これに対し映画版では、かいじゅうたちと折り合いが悪くなったマックスが、かいじゅうたちと別れを告げて、再びボートに乗り、自宅近くの林の河畔に戻って、そこから自宅まで走って帰宅する表情をイキイキと描いて見せる。見慣れた家並みを走りぬけ、自宅に戻り、キッチンのドアを開けた瞬間、母親に抱擁され、温かい食事にありついて、エンドロールという結末。

供される夕食が原作のテーブルに載せられていたのと同じ、シチューのようなものとケーキという点は忠実だが、「逃亡」「帰還」「和解」という流れを作るために、ファンタジーの要素を犠牲にした感も否めない。

冒頭で、期待(予想)通りの出来、と言ったのは、映画化の報に接した時点で、少年の成長物語的な話にしてくるだろうな、という予想があり、その予想に対して、映画のクオリティとして、期待通りであった、ということだ。

ファンタジー映画を期待していた人からすると、やや期待はずれ、の感もあるだろう。

実際、ウチの下の子ども(5歳・女児)は、途中でコワくなってずっと文句を言っていた。
もうすこし理解力が上がっているだろう上の子ども(7歳・男児)はマックスが、かいじゅうたちの島を離れるシーンで、感動の涙を流していた。

ラスト近く、マックスに腹を立てたキャロルが、それを諌めるダグラスの右手を引っこ抜いてしまうくだりは、同じモーリス・センダックの「7ひきのいたずらかいじゅう」(好学社/販売中止)を思い起こさせて、センダックファンならニヤリとしてしまうところ。

7ひきのいたずらかいじゅう (1980年)

*1

子どもに付き合って吹き替え版を鑑賞したのだが、せっかくなので、フォレスト・ウィテカーや無駄に豪華な声優陣をそろえた字幕版でもう一度見てみたい。

*1:プレミアついてる。買っておいてよかった。