⇒奥沢

向かいの座席に座った、もうさほど若いともいえない女が、袋に入ったままの菓子パンをもごもごと頬張っている。

周囲の人は皆、もうそんな光景には慣れ切ってしまっていて、誰もがそれを当たり前の風景として受け入れている。
もちろん、僕だってそうだ。

雨の日。
遅い午前中の私鉄電車の車両は、着古したスーツの据えた臭いと女たちの化粧のにおいが入り混じって、つい数時間ほど前までの通勤ラッシュの名残を感じさせながら、多摩川を渡ってゆく。

誰かのイヤホンから漏れる、衣擦れのような小刻みな音。

二つとなりぐらいの座席にダークグレーのスーツの男。スーツの袖と裾が、雨に濡れて色が変っている。
男の濡れたビニール傘(柄にAPCと書いてある)が、電車の床に水溜りを作り、ゆっくりと、だが着実にその版図を広げていく。
とても野心に満ちた感じで。

僕はそれを眺めていた。
その目の端で向かいの女が相変わらず口元をむしゃむしゃと動かしている気配を感じながら。

「ジャンボ蒸しケーキ」

女が食べているパンの袋には、そうかかれていた。

それを半分ぐらいまで食べたところで、「ジャンボ蒸しケーキ」の裏に引っ付いている薄い紙が女の気に触りだす。
付けたままでは食べづらいのだろう。

もしかして、女はそれを剥がし、剥がした紙にへばりついた「ジャンボ蒸しケーキ」の生地を、前歯でこそげ取ったりし始めないだろうか。

僕は気が気ではなくなりはじめる。

電車が踏み切りに差し掛かって、遠くでカンカンカンという音が近づいて、また遠ざかってゆく。