閉店

閉店というのは、さびしいものだ。
通りがかりの古びた商店などのシャッターに、長年の愛顧を謝する張り紙などされているのを見かけるだけでさびしいが、気に入っていた飲み屋や愛用していた本屋などが閉店するとなると、寂しさもひとしおだ。

前回の記事でも触れた大井町の大山酒場の閉店は、その知らせを受け取ったのが最後の営業の夜だった。
神保町のランチョンでいい心持になり、次の店へと向かおうとしたのを急遽、予定変更。
大慌てで三田線京浜東北線を乗り継ぎ、大井町に着いた頃には21:00を少し過ぎていた。

JRの改札を出て、京浜東北線の線路沿いの道を品川方面に少し行った辺り。
その先に飲食店の入り口があるとは思えないような、大人一人がようやく通り抜けられる程度の路地を入り、古めかしいドアを開けると、白衣に三角巾のよく見かけるお姉さんが立っていた。

「もうおしまい。食べ物も全部終わっちゃたの。だからおしまい。おしまい。」
「今日で終わりなんでしょ?お酒まだあるんだったら、一杯だけ、ね?」

僕が両手を合わせて頼み込むと、お姉さんも根負けしたのか、中に通してくれた。

「なににします?」
「じゃあ梅サワー」

店の中は、まだ別れを惜しむ酔客で一杯だ。
皆、いつも通り陽気に飲んでいるようにみえて、一様にどこかさびしげな顔をしている。
空騒ぎ、というヤツかもしれない。

隣の席では、スーツにステンカラーコート姿の男性が、だいぶ赤い顔をして「さびしいよな、もったいないよな」と、誰にともなくしきりにつぶやくように言っている。

出された梅サワーは、限りなくニセモノ臭い、いつもの味だ。
一口飲んで、もう一度ぐるりを見回すと、かつては天井近くににぎやかにつるされていた品書きの白い札も、あらかた取り外され、かえってまばらに残っているのが余計に哀愁を誘う。
数日前に突然決まった閉店だったようだが、それが決まってから何か品切れになるごとに一つ、また一つと外されていったのだろう。

「こんなものしかないけど」

普段見かけたことのない、他のお姉さん方より余裕でふた周りは若そうな「お姉さん」が、そう言って”じゃこおろし”を出してくれる。
目の前におかれている伝票の300円の欄にしっかり正の字が書き加えられているのもさすがのものだ。

「遅くにきて悪いね、最後にここんちの煮込みが食べたかったなあ」

僕が言うと、入り口に立っていた方のお姉さんがまるで歌うように

「ないよ、ないよ、本当にもうおしまいなんだから」

隣の席のコートの男性が

「悲しいなあ、もったいないなあ」

とつぶやくのと、店の奥のカウンターにいた常連客たちが、カウンターの中の若いコックと乾杯をしたのはほぼ同時だった。
体調を崩したというマスターの姿はそこにない。

「ホントにさびしくなるね」

僕も誰にともなく言ってみた。
最後の夜の酔客たちは、ある者はグラスを掲げ乾杯し、ある者はしきりに歩き回っては、お姉さんたちに握手を求め、またある者は酒なのか涙なのか、赤い目をして、じっとグラス越しにカウンターを見つめ、それぞれ思い思いに55年の幕を閉じる酒場との別れを惜しんでいた。

そんな喧騒の中で、もう腰の曲がった、僕が常々店で一番のベテランだとお見受けしていたお姉さんが、目の端を、そっと指でぬぐうのが見えた。
それが大山酒場の最後の夜に僕が見たすべてだった。

写真は在りし日の大山酒場の煮込みと梅サワー。
去年の暮れあたりに撮ったものらしい。
食べ終わった残りの汁しか残っていない器を撮って、何をしたかったのか、自分でもいまひとつ分からない。まあ酔っ払いのやることなど、せいぜいそれぐらいのものなのだ。